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【 2026/02/06 14:46 】
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杉園先生からはいつも心のこもったメールを頂いていましたが、
返事を書いたことはありませんでした。
誠に申し訳なく思っていました。
先日下記のようなメールが届きましたので、思わず返信してし
まいました。
杉園先生披露してごめんなさいね。


『志田先生、こう尋ねられたらどうお答えしますか?


志田先生が大きい駅、それも色んな店とかがたくさんある駅がいいですね。
その駅、もしくは駅周辺にいる時に、道行く人からこう尋ねられます。


「○○駅はここですよね?」(○○駅とは、今、先生がおられる駅のことです。)



志田先生はどうお答えしますか?




実は、今からお話することは、今朝、実際にあった出来事です。


朝のコーチングの予定を終え、出勤途中の御堂筋でのことでした。


50代の女性がサラリーマンらしき男性に道を尋ねていました。
信号待ちをしていた私はその一部始終を聞いていました。


「アメリカ村はどこですか?」
「ここですよ。(少し笑みを浮かべながら…)」


「はあ…。」
そうして男性は足早に立ち去っていきました。


御堂筋(心斎橋~難波間)は、ほとんど心斎橋商店街とアメリカ村が隣接しています。




ここで、さっきの質問です。
志田先生ならどうお答えしますか?




・・・・・・・・・




・・・・・・・・・




難しいことはないですよね。


女性の方、どうしていいか分からない様子。
私の方から声を掛けさせていただき、


「どちらに行きたいのですか?」
「アメリカ村はここなんですよね?」


「そうですよ、どこに行きたいんです?」
「ここなんです…」と言って、黄色いチラシを。
あるビルの4Fにあるカラオケのチラシでした。


すぐ近くのビルでしたので、見えるところまで案内し、
「あの赤い柱のビルですよ。」
「ああ!あの赤い柱の、ですね。」


「はい、奥にエレベーターがありますのでね。」
「ありがとうございます。何人かにお聞きしたのですが…、助かりました。」


んん?
何人にも聞いた?
もしかして、皆、さっきのサラリーマンの人みたいな対応だった?


んんんんん…。
かなり問題ですよね。




先程、志田先生への質問で大切なことは、

「○○駅はここですよね?」と駅周辺で尋ねている方の望みに応えることなのです。


「○○駅はここですよね?」の言葉の意味として、

:○○駅から電車に乗りたいので駅改札の場所を知りたい
:駅から出ているバスに乗りたい
:駅周辺にあるお店に行きたい
:駅周辺にある待ち合わせ場所に行きたい

等、色々な目的があるはずなのです。


それを、「ここですよ!」では、尋ねている方の答えには全くなっていないのです。


尋ねる人の言葉が足りない。
それでは、分からないよ。
という氣持ちも分かります。


私たちが患者さんへお話するときに、こういう話し方をしているようでは、全くもって駄目ですよね。


しかし、私達は人のお役に立つべく仕事をしています。
これでは、いけないです。


私達だけではなく、困っている人のお役に立とうとする為に、氣を、心を配るべきですよね。


常日頃から、心掛けることが大切なんだと想います。




よくスタッフと話すことがあります。
もしかしたら、こんなことを患者さんにしているかもしれない…と。


例えば…

患者さん「腰が痛いんです。」
治療師 「分かりました。痛みを軽減(もしくは、消失)させますね。」


まあ、こんなあっさりとした会話はそうないとは想いますが、
こういう内容の会話での治療では、患者さんの想いに応えているとは言えないですよね。


先程の、「アメリカ村はどこですか?」の問いに、「ここですよ。」と、
答えているのとあまり変わらないと想いません?


「腰が痛いんです。」の問いに症状を掘り下げていくことは当然のこととして、
患者さんの状況や希望を、さらに掘り下げないといけません。


:どういう時に最もつらいと想い、解消したいと想っておられるのか。
:どういうことを痛みを感じることもなく、生活を送りたいと想っておられるのか。
:どういうパターンで治療に通院できるのか。しようと想っておられるのか。
:通院に対し、どこまでが可能なのか。(料金・回数・時間帯‥)
:一番の望みは何なのか。
:最優先事項は何なのか。


もしかしたら、今度の日曜日にお子さんと遊園地に行くお約束をしているのかもしれません。


私が腰痛を持っている患者だとしたら、仕事よりもそちらが優先かもしれないです^^


このような場合、腰痛を治すことよりも、お子さんと日曜日に遊園地へ行くこと、行けるようになることが望みとなります。


これが、この患者さんのウォンツであり、目標設定することとなるのです。


そこに目標設定し、共に、一緒に向かっていくことが大切なこととなります。
そういう会話や様々なマーケティングを実施するのです。


すぐに治すことができれば、特に問題はないかもしれません。
(そうであっても…ウォンツを理解することは必要だとは想いますが…)


これは、常日頃から、人の想いや目的、ニーズやウォンツというものに、
どれだけ意識できているのか、フォーカスしているのかが、とても重要だと想うのです。




志田先生はどう想われますか?




いつも最後までお読みいただいてありがとうござます。
本当に感謝です。



 SRC杉園信一
追伸
ご感想等、いただけると本当に励みになります。
よろしくです^^』

以上のメールに対して私は次のように感想を述べさせていただ
きました。


『杉園先生
 
メールありがとうございます。
 
患者さんの本当の目的は何か!
痛みだけを解消して欲しいのではなく、近未来の目的を達成できるかどうかが
問題なこともあります。
 
よくあるのは「あした旅行に行きたい、今度の日曜日はゴルフなんだけど、」
などという楽しみがあり、それを満喫したいが為の事前の体の調整だったり、
現実に腰が痛いので、その目的を達成できるかどうかが心配である場合も
多いのです。
 
ニーズよりウォンツ!
あなたの仰りたいのはこの辺でしょうか?
 
ここで大事なのは患者さんの症状は今回の施術でどの程度緩和できているか
を伝えることが出来るかどうかです。
 
「今回の予定日まで〇〇日ありますから、それまでに〇回通院してみてください。
そうすれば軽快し、ゴルフなり、旅行も可能です。」
あるいは
「今の状況では、たとえ施術が良くても、体に無理がかかります。予定は変更し
てください。」とハッキリいえることが大切です。
 
患者さんと「表現」するか、お客様と「表現するかでは私たちの心構えが違います。
 」
患者さんが私たちを信頼しているかどうかは、真剣に患者さんの未来と心のケア
をしてあげれるかどうかにかかっています。
 
拙いメールで御免なさい。』

とお答えしました。
杉園先生の意にかなったかどうかはわかりません。
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【 2009/02/20 12:14 】
CATEGORY [ 整体院トピックス ] COMMENT [ 0 ] TRACKBACK [ ]
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親鸞聖人の著書の中に次のようなことが書いてありました。

慈悲に聖道・浄土の変わりめあり、
聖道の慈悲というは修行してのち仏となり思うがごとく衆生を
たすけることなり。
浄土の慈悲というは仏願力にて浄土に生まれ仏となり、その
後思うが如く衆生を救いとぐることなり、

しかして親鸞聖人は自らの修行にては悟りを開くこと叶わずと
思し召して浄土門を選択されたと表白されています。

その浄土門にも自力の道と他力の道があり、自力の道という
のに定散二善(じょうさんにぜん)あり、定(じょう)というは出家
して禅定にて浄土や仏を観る行であり、散(さん)というは在家
のまま世福を行じ(良いことを行い)、その福を仏に回して浄土
に生まれようとする心映えをいいます。

しかしながらこんな行ですら親鸞聖人には不可能と知られ、他
力の道を選ばれたのです。
勿論親鸞聖人にはその師法然上人がおられ、師の教え通りに
信心を獲得(ぎゃくとく)されているわけでして、決して独りよが
りの信仰にはあらずと、常々仰っておられます。

その他力の道と言うは自分の力ではとても浄土に行き、仏の
悟りを開くことなど到底不可能だと言う深慮から生まれたもの
です。

自らの業の深さに打ちのめされ、いかなる行も今生での悟りに
は間に合わず、来世は「地獄は必定(ひつじょう)」なるがゆえに
初めて阿弥陀仏の本願に救われる自分を発見されたわけです。

阿弥陀仏の本願に48あり、そのうちの18番目がかの有名な「
悪人正機」説の元となる大願であります。その本願成就文に「
聞其名号 信心歓喜 乃至一念 即得往生 住不退転・・・」と
続きます。その意味を意訳すると「すべての往生の道を閉ざされ
ているどんな悪人であろうと、仏性ある限り、決して救わないこと
はない。ただ、ただ、わが名を聞きて救われることを喜べ、その
喜びはわが名(南無阿弥陀仏と)を思う一念に往生は定まり、も
う二度と迷いの世界には踏み入ることはない、との仏力の現わ
れなのです。

もう一度カンタンにおさらいすれば、自力の行を全て閉ざされた愚
かな人間だからこそ、仏(特に阿弥陀仏)はそのままで良いから
参れと仰られています。
このそのままとは何か!
そのままとは己の犯した罪の恐怖心がいっぱいで自らの力で恐
怖心払うことが出来なくても、罪も迷いも忘れてそのまま(実相
=仏性)来い、救うぞ!
という救いの現実なのです。


今回母の入院が縁で「続々甘露の法雨」を読んでいて最後にきて
涙が止まらなかったのは、そのご文章が阿弥陀仏の本願とまった
く同一だったからです。
そのくだりを書き写して見ます。

『・・・されど「動揺の心」をもって
「動揺のこころ」を鎮むること難(かた)ければ、
不安の心にて不安の心を止(とど)めんとするも亦能(あた)わざ
るなり。

かくの如きときには、

ただ、神に委ねよ
全(まった)き愛なる神に信頼して、
「神よ」と呼ぶべし。
神は常に汝に調和と平和を与え給うべし。
神の中(うち)に汝の「心」を投げ入れよ。

「神よ、神よ」と称えつつ
汝の全存在を神に委(まか)せ切るべし。
・・・・』

ここに神の慈愛と仏の慈悲との一体なることを見るのです。

私は感激のあまり頬伝う涙を禁じえませんでした。
生長の家は自力聖道門のみにあらず、たとえ悟りを開けない
ものにも救いの道を必ず残し賜っていることが確認できて、本
当に嬉しかったのです。

「万教帰一」まさしくこれなり!

【 2009/02/15 10:32 】
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続々甘露の法雨を読み進めていると、病気が消滅する理由が
「心から恐怖を消し去る」ことが重要であり、懺悔の重要性を説
かれています。

懺悔といえば仏教では次のように説かれています。
最大の懺悔は「眼より血の涙を流し、全身の毛孔より血の汗を流
す」とされています。
次の懺悔は「眼より血の涙を流し、全身より汗を流す」とされてい
ます。
救いの最後の砦は最低でも「眼より涙を流す」懺悔とされていま
す。
自分の罪を明らかにし、白日の下に晒してこそ光に合い、罪という
闇が消えます。
1000年の闇も光にあえば一瞬にして消えるように、罪も神仏の前
での懺悔により一瞬にして消滅するのです。

生長の家で「人間神の子なれば本来罪なし」とはとかれますが、
だからといって自分に罪が無いという傲慢や慢心では罪は消えず
罪は死に値するといわれています。
懺悔して初めて罪は消滅すると言われているのです。
当たり前のことですが・・・・。

さてだからといって民衆の前で懺悔することを許していません。
「真理を解しない闇の前に、いたずらに悪評する民衆の前に、罪を
暴露しても何の効なし」です。
静かな部屋で先達に行うか、手紙に書いて送れとされています。
私としては神仏の前でも良いから一人静かに懺悔するのも良いか
と思います。

そして一たび懺悔したならその罪にとらわれるなと諭されています。

このとき流した涙はあなたを浄化し、晴れ晴れとした新しい自分の
発見をされることでしょう。

つづく

【 2009/02/11 13:05 】
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わが父母はお互いに入退院を繰り返している夫婦です。
昨年12月には父が咳が止まらないといっては5日間の
入院をしました。
もともと石材業だった父は塵肺を患っており、時折咳が
酷くなってはいました。

今回は母が入院ということになりました。
原因は輸尿管結石と血小板減少症が原因のDICでした。
一時は人事不省に陥り危篤状態でした。
しかしなんと強運の持ち主でしょうか、今回も九死に一生
をえました。
もうこんな騒ぎは幾度となく経験しているのです。

かつて夫婦が一緒になるとき占い師が「2人が一緒になる
とどちらかが入院し、どちらかが退院するという生活をを繰
り返すでしょう」と占っていました。
こんなことが2人にとっては潜在意識に未来予想図をインプッ
トしてしまう恐怖の体験となることにもなりえるのですね。

だからそれが当たり前だと考えてしまう。
そのため、病気を、心が創ってしまうのです。

しかし、面白いことに2人は病気はすれども間一髪助かるの
です。
だから人生はじつに感動的です。
私から見れば2人は運命に翻弄されているように見えるので
すが、良く考えてみると実は彼らは運命を弄んでいるのかも
しれない。
過酷な運命としての病気や入院は過去の業の自壊作用とし
て受け止めているのかもしれないです。

そんなことを考えながら私は新幹線の中で神想感と聖教読
誦をしていました。
普段は甘露の法雨を読誦しているのですが、昨日は時間が
あったせいで4部教を読んでいました。

最後に「続々甘露の法雨」を読みました。

この聖教も初めのうちは甘露の法雨のごとく人間・神の子の
悟りにい入らせる為の言葉が美しく並んでいます。

しかし途中からガラリと雰囲気が変わり、一歩進んだ心境と
して「神の子・人間」を覚ることがもっと大切であると説いてき
ました。

「うんうん、その通りだ。私は神なり、愛なり、智恵なり、救い
なり」が悟りだと考えていました。
そのことをハッキリと裏付ける言葉に出会い、うれしかったの
です。

つづく


【 2009/02/09 12:44 】
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「にんげんだもの」という相田みつを先生の言葉や書を見聞きした事
があると思います。
どんな感想を持つでしょうか。
一般的に苦しいときや辛いとき、失敗したとき悲しいとき
「にんげんだもの」仕方がないさ、
「にんげんだもの」過ちだってあるさ、
「にんげんだもの」 「      !」

この見方も神仏(悟りの世界)からみると
「にんげんだもの」救わずにおれようか!
「にんげんだもの」迷いは当たり前、無条件で救うぞ!
迷いは人間の証明だ!
わし(神仏)が見てるぞ、守ってるぞ、待ってるぞ!
の呼び声に聞こえるのが嬉しいね!

「ああ神仏に守られているな。
にんげんだもの救われないわけがない」
という実感とフツフツと「信仰心」の湧いてくるのが嬉しい。


しかしながらそんな心境にいても身内に不幸が起これば
悲しいし、辛いし、苦しいものだ。
母が危篤と聞いただけで次第に心が暗くなってくる。
母は実相の国土に摂取されるんだ
古い衣を脱ぎ捨てて新しい世界に飛翔するんだと思い、
喜ぶはずが、胸をつままれるのはなぜだろう。

ふと日蓮上人のエピソードを思い出した。
弟子の身内に不幸が起こると一緒に大泣きし、
一緒に悲しんでくれたそうです。
日蓮上人の人柄が忍ばれます。

先哲のエピソードにはこの種の話はつきません。
悟りを開いていようと、信心を得ていようと
「にんげんだもの」




【 2009/02/06 17:58 】
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