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【 2024/05/07 01:09 】
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親鸞聖人の著書の中に次のようなことが書いてありました。

慈悲に聖道・浄土の変わりめあり、
聖道の慈悲というは修行してのち仏となり思うがごとく衆生を
たすけることなり。
浄土の慈悲というは仏願力にて浄土に生まれ仏となり、その
後思うが如く衆生を救いとぐることなり、

しかして親鸞聖人は自らの修行にては悟りを開くこと叶わずと
思し召して浄土門を選択されたと表白されています。

その浄土門にも自力の道と他力の道があり、自力の道という
のに定散二善(じょうさんにぜん)あり、定(じょう)というは出家
して禅定にて浄土や仏を観る行であり、散(さん)というは在家
のまま世福を行じ(良いことを行い)、その福を仏に回して浄土
に生まれようとする心映えをいいます。

しかしながらこんな行ですら親鸞聖人には不可能と知られ、他
力の道を選ばれたのです。
勿論親鸞聖人にはその師法然上人がおられ、師の教え通りに
信心を獲得(ぎゃくとく)されているわけでして、決して独りよが
りの信仰にはあらずと、常々仰っておられます。

その他力の道と言うは自分の力ではとても浄土に行き、仏の
悟りを開くことなど到底不可能だと言う深慮から生まれたもの
です。

自らの業の深さに打ちのめされ、いかなる行も今生での悟りに
は間に合わず、来世は「地獄は必定(ひつじょう)」なるがゆえに
初めて阿弥陀仏の本願に救われる自分を発見されたわけです。

阿弥陀仏の本願に48あり、そのうちの18番目がかの有名な「
悪人正機」説の元となる大願であります。その本願成就文に「
聞其名号 信心歓喜 乃至一念 即得往生 住不退転・・・」と
続きます。その意味を意訳すると「すべての往生の道を閉ざされ
ているどんな悪人であろうと、仏性ある限り、決して救わないこと
はない。ただ、ただ、わが名を聞きて救われることを喜べ、その
喜びはわが名(南無阿弥陀仏と)を思う一念に往生は定まり、も
う二度と迷いの世界には踏み入ることはない、との仏力の現わ
れなのです。

もう一度カンタンにおさらいすれば、自力の行を全て閉ざされた愚
かな人間だからこそ、仏(特に阿弥陀仏)はそのままで良いから
参れと仰られています。
このそのままとは何か!
そのままとは己の犯した罪の恐怖心がいっぱいで自らの力で恐
怖心払うことが出来なくても、罪も迷いも忘れてそのまま(実相
=仏性)来い、救うぞ!
という救いの現実なのです。


今回母の入院が縁で「続々甘露の法雨」を読んでいて最後にきて
涙が止まらなかったのは、そのご文章が阿弥陀仏の本願とまった
く同一だったからです。
そのくだりを書き写して見ます。

『・・・されど「動揺の心」をもって
「動揺のこころ」を鎮むること難(かた)ければ、
不安の心にて不安の心を止(とど)めんとするも亦能(あた)わざ
るなり。

かくの如きときには、

ただ、神に委ねよ
全(まった)き愛なる神に信頼して、
「神よ」と呼ぶべし。
神は常に汝に調和と平和を与え給うべし。
神の中(うち)に汝の「心」を投げ入れよ。

「神よ、神よ」と称えつつ
汝の全存在を神に委(まか)せ切るべし。
・・・・』

ここに神の慈愛と仏の慈悲との一体なることを見るのです。

私は感激のあまり頬伝う涙を禁じえませんでした。
生長の家は自力聖道門のみにあらず、たとえ悟りを開けない
ものにも救いの道を必ず残し賜っていることが確認できて、本
当に嬉しかったのです。

「万教帰一」まさしくこれなり!
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【 2009/02/15 10:32 】
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