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【 2024/05/06 23:22 】
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パニック障害の治療法
 
第1段階
 
心の根っこには恐怖と怒りがあるといいましたが、この心を消滅してしまえばパニック障害は簡単に治るのです。
 
ただ、恐怖の根っこには沢山の記憶とそれにまつわる感情があります。
心理学的には幼少の頃からの記憶を呼び戻しつつ、現在までこの心の根っこの治療をするわけです。
 
それには思い出してはその場面を映画のように見つめ、もう一人の自分が主人公である過去の自分の感情を共感します。

あくまで事実認定や同情ではなく、感情のみを追いかけます。

同情はともに地獄に落ちます。

共感とは相手の感情を理解し、理解したことを相手に伝えることです。

「ああ、あの時は怖かったのね」「ああ、悲しかったのね」「ああ、辛かったのね」と私は理解しましたよ、と第三者になりきり、声を掛けてください。

そして、しっかりと過去の自分を抱きしめてください。

あなたはそこでは心理学カウンセラーなのです。
もっとも身近で共感しやすいかたが、もう一人のあなたなのです。
 
ただ、記憶は際限なくありますから、少しずつ思いだし、「映画化」をおこない、「もう一人の自分」をカウンセラーとして活躍させてください。
 
登場人物やものや事に感謝
 
次に行うのは恐怖を消滅する最善の方法です。
 
それは感謝することです。
 
「思い出し」のときに登場する人々に、一人一人感謝しましょう。
どうしてもあの人だけは感謝できないと言う方があると思います。

当然です。
そのために病気になったのですから。
 
でもあなたに酷いことをした相手も実は負の連鎖を背負っている人なのです。

パニック障害を起さないかわりに、他人を傷つけているのかもしれません。

あなたは自虐的でしたが、相手は虐待側なのかもしれません。

あるいは無視することにより恐怖から逃れているのかもしれません。

ともに根っこは一緒です。

相手も恐怖を心に持ち、それと闘っているのです。

恐怖に勝つ為に、他人を踏み台にしているのかもしれません。

そう思うと、他人のような気がしないと思います。

そんな相手の気持ちを考えてあげてください。

とにかくゆっくりで結構ですから、憎い相手を感謝できるように心から手を合わせてください。

よく言われることですが、他人と過去は変えられない、しかし、自分と未来は変えられる、と。

自分が変われば相手も変わります。
こころから「ありがとう」と声に出していってみましょう。
 
そしてなんといっても最も感謝しなければならないのは自分の両親と義父母です。

この4人が居なければあなたもあなたの夫も居ないのです。

しかも子供たちも居ないのです。

4人の父母に感謝することが全ての病気を消滅させる最大の療法なのです。
 

時に夫を愛せない方、妻を愛せないがおられます。

その原因の多くは何らかの原因で自分の父や母と仲たがいし、和解していないことがあります。

でも父母はあなたを深く愛しています。

あなたが愛さないことにより反対に傷ついているほうが多いのです。

あなたの子供たちがあなたを愛していないと思ったら、とても悲しくありませんか。

あなたの父母も同様です。

例えどんな親でも、心の底では子供のことが気になって仕方がないのです。

虐待している親でも本当は心のどこかで愛しているのです。

しかも虐待している相手がもっとも自分に似ているのです。

似ているがゆえに自分を赦せないと感じ、まるで自分をいたぶるように虐待しているのです。

極端な話になりましたが、根っこが一緒という観点で話しました。
 

また、誰が憎いのか判らないという方も多いと思います。

パニック障害患者さんが原因となる相手を特定する方法があります。

それはその方の前では本音と違う応対をしていることが多いということです。

その方の前では
好かれようと無意識のうちに努力している。

嫌なことでも引き受けてしまう

その方の前から
立ち去ると、ほっとする

その方の
前に行くのがツライ

心の中でよくその方のことを考えている。

考えていると不安になる。

などと思いあたる方が、あなたのパニック障害の原因となる方である可能性が高いと言えます。
 
そんな相手は居ないような気がする、と言う場合は無意識の中にしまいこんでしまっている為、もっとも始末に終えない状況ということにもなります。

「負の連鎖」が長く続き、原因となる相手が消えている場合があります。

例えば職場が変わったり、相手が亡くなったりしている場合などです。
 
ではこれで原因が無くなったのだから、パニック障害も起こらないように思うのですが、現実には起こります。

その原因は無意識の中にしまいこまれた「負の連鎖」の記憶の感情を再始動してしまったからです。

過去の記憶を思い起こさせるような事件が再び「負の連鎖」の感情を呼び起してし
まうのです。
 
そうなると消滅してしまっている原因である相手、現在の相手にも感謝しなければならないと言うことになります。

その「負の連鎖」を遡ると実に3代も前と言う事実もあります。

曽祖父や曾祖母に原因があることも考えられます。

つまり先祖!ということも大いにありえるのです。

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【 2009/10/30 09:39 】
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ここでもう一つ考えなくてはならない事例が有ります。

それは、このカテゴリーには当てはまらないと言う方です。

自分は両親に絶対愛を勝ち得ているし、家族とも立派に仲良く暮らしているのに、あるときからパニック障害になってしまったという場合です。
 
その場合に考えられるのは、パニック障害を引き起こした本人は「負の連鎖」を背負っていないが、彼や彼女の配偶者や職場の人間関係の中に、実は「負の連鎖」を背負っているものが存在すると言うことです。

しかも彼や彼女の配偶者もしくは職場の人間は「負の連鎖」を背負っていても、第2のカテゴリーの仲間ではなく、第1のカテゴリーの仲間であることが考えられます。

つまり虐待された人間が第1のカテゴリーに属し、子供や配偶者あるいは他人を虐待していくと言う局面であります。
 
こちらのほうが実は厄介なのです。

何故ならカウンセリングに訪れる方は患者さんで、パニック障害を引き起こしているのですが、起させた本人は自分が責任を負っていると感じていないからです。

無自覚のまま次々と「負の連鎖」を作っているのです。
 
例えばパニック障害の患者さんとのカウンセリングで「負の連鎖」を持っていない可能性が高いのですが、発作を度々引き起こす方がありました。

この患者さんの場合、結婚15年後に最初の発作を引き起こしています。

夫に問題があり、
DV(ドメスティックバイオレンス)とまではいかないが、言葉が荒く、怒鳴り散らし常に家庭は戦々恐々としている状況だったと言うことです。

夫は確かに「負の連鎖」を背負っている第1のカテゴリーの人間と言うことが良くわかりました。

自分の母親からは条件付の愛情を示され、妻を絶対に母親のようになって欲しくないと望んでいました。

つまり、言葉を替えれば、自分を支配するあるいは子供たちを支配する母親にはしたくないと言うことになります。

一見素晴らしい夫に見えるのですが、反面常に自分が支配されないように虚勢を張り、常に家族を支配していないと心の均衡が取れないのです。

これも「負の連鎖」を背負った
AC(アダルトチルドレン)の1例です。
 
全て自分への命令を与えるものへの拒否感があるのみです。

仕事上でのストレスは家族、特に妻に対して鬱憤が晴らされると言うことになりがちです。

そこで両親の話をしようとすると、理想的な彼女の両親の姿は、当然彼には受け入れ難いものなのです。

実家には帰るな、自分の両親の話はするな、という反発心を生むだけなのです。

当然夫婦間の感情の軋轢は大きくなり、何度も離婚を考えたそうですが、子供のことを考えるとそれもできない、と思っているうちにパニック障害を引き起こしてしまったと言うことです。
 
夫婦の間に問題を生じている場合、夫が妻を充分に愛せない原因は前にも述べたように夫が母を愛せていないのが原因です。

夫が母から無条件の愛を与えられていないから、妻が父母を愛し、子供たちを無条件に愛している姿は容易に容認できない姿なのです。

妻の話す世界には信じられない理想的家族の姿がある、これが彼にとっては得たくても得られない「苦」であったのです。

彼の心の「苦」は心の底に沈めてあったはずなのに、妻の話が彼の心の傷を抉るような気がするのです。

その瞬間彼は妻を暴力的に制圧し、不幸に陥れることにより、自分と同じ土俵に上がらせてしまうのです。

そして妻も自分と同じくらい不幸なのだと言う履き違えた平等感に安心するのです。

これは母には出来なかった仕返しを、妻を通して、しているともいえます。

女性には支配されたくないという歪んだオイディプスコンプレックスともいえます。
 
現実に彼は自分の母親と合えば大喧嘩を始めます。
そのため一緒の職場には同席せず、勿論同居もしていません。
 
この治療法はどうするかと言うと、次回から治療法を述べていくのですが、本人がカウンセリングにお見えにならないのですから、普通の医療ではNGのはずですが、私どもにとってはこれもチャンスなのです。

パニック障害を引き起こしている患者さんを通して彼を不幸のどん底から引き上げることも可能なのです。

それは治療の第2段階でお話ししていきます。
 
治療可能と言うよりここで治療しないと、彼の「負の連鎖=アダルトチルドレン」は子供たちに引き継がれてしまいかねないのです。

患者さんには自分のためでもあり、かつ子供たちへの連鎖を止めるためにも大変な役割があるのです。
 
それは大変難しいことのようですが、実は考えようによっては簡単なのです。
患者さんがそれをキチンと理解し、実践することだけが重要なのです。
【 2009/10/28 12:08 】
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パニック障害の概略
 
『自分は心の主人か、それとも奴隷か?』(禅語より)
 
この言葉は禅宗の言葉として有名です。

病気について解釈すれば「主人であれば病気はつくらず、奴隷なればこそ病気をつくる」とでも申すところでしょう。

本当に健康で自由な人というのは自己の心を支配できる人のことです。
支配しているつもりでも心に支配されている方が多く、心の病気を始め、難病や癌になったりします。
 
ではどんな心が病気を創るのでしょうか。
それは『恐怖心』と呼ばれる感情です。

病気や不幸は自らが呼び寄せているのです。
恐怖する心が病気や不幸を呼び寄せています。
 
この恐怖に立ち向かう方法に2つあります。
 
第1は恐怖を覆い隠すように「怒り」をもって対抗する人々。
絶えず他人に対して虚勢を張っていることが多く、たいていの場合循環器系の疾患になりやすい。
 
第2は恐怖に立ち向かわず「逃げる」ように隠れる人々。
本当は怒りたいのに自己の内側に溜め込み、自己がいい人であることを演出します。

内在した怒りは恐怖とタイアップし、潜在意識に埋め込まれていきます。

ことあるごとに恐怖から逃れる為、本心と違う行動をとります。
おどけたり、ピエロになったり、ヒーローを演じたり、世話焼きになったり、恐怖心の原因である人との関係が近ければ逃げることもかなわず、心の中で反抗しながらも、従順である、などの自己のポジションを作っていきます。
 
一般的に幼少の頃両親から絶対の愛を感じている方にはこういうことは起こらないといわれています。

愛を感じていないか、条件付の愛を受け取っていた方が第2のカテゴリーに属します。

条件付愛とは「いい子にしていなさい、そうしたらこれをあげるわ」「掃除しなさい」「勉強しなさい」などといわれ、そうすることにより親に愛されることを知ります。

反面、親の言うことをしないと、酷く叱られたり、阻害されたり、虐待を受けると、子供は酷く傷つき、更に条件つき愛を得ようとします。

簡単に言えば、パニック障害の患者さんやうつ病の患者さんは心の根っこに虐待されたか、条件付愛を得ていたともいえます。
 
さて、第1の立場をとった人々は虐待側に、第2の立場を選んだ人々は虐待される側を演じます。

まるで肉食系と草食系みたいですが、その通りです。
そして、どちらも不幸です。

パニック障害の方々の心の根っこには『恐怖』があり、対応策として第2の立場を選んでいることが多いのです。

だからと言っていつでもパニック障害になるわけでありません。
先ほど申しましたようにピエロや世話焼きなどの役割を上手に演じていられるときはパニックになりません。

この役割が果たせないときにおこります。

具体的には例えば、一人の女性は3つの役割を持ちます。

嫁として、妻として、母としての役割です。

そしてよき嫁として、よき妻として、よき母としての役割を演じているときは良いのですが、何らかの原因で3つの役割から除外されたと感じたときに発作を引き起こすのです。

「私はここに居るのよ!忘れないで!無視しないで!」と言う心の叫びが自分で病気を誘発します。

つまり病気を引き起こすことにより、周囲の関心を引き寄せ、自分の存在を確認しているのです。

しかし、周囲の方が心配してくれても、それがあまり長引くと却って疎んじられることもあるので、発作は数分から数十分で終わります。

病院で検査しても生理的病理的に異常は発見されません。
パニック障害と言う診断名が付きます。
そして脳内の伝達物質の異常とされ、薬が処方されます。
それが精神科でさえそうなのです。

記憶と感情が原因であるにも拘らず薬で対処しても、原因は去っていないわけですから、いつまでたっても治らないということになります。

記憶にまつわる感情(恐怖)を消滅させない限り、この病気は治らないのに、と思います。
 
パニック障害の方の心の根っこには恐怖があると申しましたが、これが地雷です。
この地雷のスイッチを押してしまった時に発作を起します。
 
このスイッチは限りなく作られています。

過去の出来事の記憶(記憶と言うのは本人が覚えていようがいまいが、潜在意識に刷り込まれています)がそのときの感情とセットでスイッチとして作成されています。

現在意識が過去の記憶の感情と同じ感情を体験したときにスイッチは押されるのです。

あなたがパニック障害に陥った時を考えてください。

狭い空間に他人がいっぱい居て、息苦しくなり、動悸も激しくなったはずです。
何がなんだか判らないうちに始まり、しばらくすると落ち着いてくるはずです。
 
こんな経験はしたこともない、いったい何が起こったのだろうと訝しく感じられたことでしょう。
 
これが現在の現象としてのパニック障害の概略です。
 
パニック障害ではなく、自己の役割を失い、途方にくれ、生きる力を失ったり、なにもする気にならない、もう死にたいなどと言う方向に行くとうつ病と言うことになります。

パニック障害とうつ病の根っこは一緒です。

ちがうのは自己の役割を持つかそうでないかの違いです。

パニック障害の方がしっかり自分の病気を認識しないで、薬ばかりに頼っていると頭はぼんやりとし、依存症が強くなりやがてうつ病になることもあります。
 
第2の方々の特徴は依存性が強いと言うことでもあります。

どういうことかというと、「こうなったのは〇〇のせいだ」と人や物や事に責任を押し付け、そのことにより心の平衡を保とうとしているのです。

例えば学校でイジメにあっている子はやがて不登校になり、ひこもり、家庭内暴力を引き起こすと言うことがありますが、根っこは第2の方々の特徴を持っています。

なぜ自分を可愛がってくれた母親に暴力を振るうのでしょう。
もっとも心配してくれている母であるはずなのに。

じつは「こんなみすぼらしい自分にしたのはこの世に生んだ母のせいだ」「自分を甘やかした祖母のせいだ」と思いつめるまでに心が病んでしまっているのです。

挙句の果てに母や弱い立場の祖母を刺してしまいます。

TV
などでこんな引きこもりの番組を見るたびに「可哀相に、父母に原因があるのだから早く気づいて、対処して欲しい」と思ってしまいます。
 
なぜ?
父母が原因?
 
あなたはそう思われるでしょうね。

これは『負の連鎖』と呼ばれる現象なのです。

虐待された子供はやがて親になり、我が子を虐待します。

しかし子供全員ではありません。

兄弟姉妹のうち誰かです。

不思議でしょう。

実はこの親は小心者で臆病者なのです。

子供全員を敵に回すことなど出来ないのです。

たった一人かせいぜい2人を虐待するのです。

そして虐待しないほかの子供を自分の味方に付けているのです。
 
児童相談所や警察が児童虐待と言うと、親は「躾」と称します。

本当の躾なら子供全員にするべきなのです。

そうすると全員から嫌われる可能性もあります。
それでは自分が寂しくなり、自己を保てなくなり、自己崩壊を起します。
それが怖いのでスケープゴートを用意している小心者なのです。

では子供たちの中で誰を選ぶかと言うと、問題を起しがちな子であり、自分に似たイジメられそうな子供なのです。

その選択は実は子供のほうが先に感じています。

何となく親から嫌われている、阻害されている。
同じ兄弟なのに自分ばかり叱られる、なぜか損ばかりさせられているように思う。

これは感覚ですから、親が例え違うと言っても誤解は深く潜行します。

また、何気ない親の一言が子供の心に親から愛されていない感じを持ってしまいます。

「うちの子はダメなのよ」「悪さばかりして、憎ったらしい」などと不用意に他人の前でもらすと、例え親は本心でなくとも子供の心にはマイナスのイメージとして植えつけられてしまうものなのです。

すると子供の行動は自然と親に対して反抗的な行動をとります。

この反抗心が親にはたまらなく不愉快な気持ちをもたらし、自分が原因であるにも拘らず、こどもを差別してしまうのです。

この差別感が親子で共有されてしまうとスケープゴートのもとを作ってしまいます。
これが酷くなると児童虐待という事になるのです
 
次に問題なのは虐待された児童がどのようにこの父母の恐怖から脱するかということです。

つまり生き抜くための智恵です。

家庭内で生き抜いていく術を自分で学んでいきます。

それが先ほど述べたヒーローとしての役割、ピエロとしての役割、親の問題まで口出す世話役、あるいは虐待を甘んじて受ける悲劇のヒロイン役などです。
 
こうして負の連鎖は親から子へ、子から孫へと受け継がれます。

どこかで断ち切らなければ、病気は治りません。
治らないどころか子孫に連鎖していきます。
 
こうした負の連鎖の心を根っこにもった方々がパニック障害やうつ病を引き起こしてしまうのです。
この心の根っこをしっかり捉えることにより、あなたの病気回復への道は開けるのです。

【 2009/10/27 20:18 】
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親鸞聖人の著書の中に次のようなことが書いてありました。

慈悲に聖道・浄土の変わりめあり、
聖道の慈悲というは修行してのち仏となり思うがごとく衆生を
たすけることなり。
浄土の慈悲というは仏願力にて浄土に生まれ仏となり、その
後思うが如く衆生を救いとぐることなり、

しかして親鸞聖人は自らの修行にては悟りを開くこと叶わずと
思し召して浄土門を選択されたと表白されています。

その浄土門にも自力の道と他力の道があり、自力の道という
のに定散二善(じょうさんにぜん)あり、定(じょう)というは出家
して禅定にて浄土や仏を観る行であり、散(さん)というは在家
のまま世福を行じ(良いことを行い)、その福を仏に回して浄土
に生まれようとする心映えをいいます。

しかしながらこんな行ですら親鸞聖人には不可能と知られ、他
力の道を選ばれたのです。
勿論親鸞聖人にはその師法然上人がおられ、師の教え通りに
信心を獲得(ぎゃくとく)されているわけでして、決して独りよが
りの信仰にはあらずと、常々仰っておられます。

その他力の道と言うは自分の力ではとても浄土に行き、仏の
悟りを開くことなど到底不可能だと言う深慮から生まれたもの
です。

自らの業の深さに打ちのめされ、いかなる行も今生での悟りに
は間に合わず、来世は「地獄は必定(ひつじょう)」なるがゆえに
初めて阿弥陀仏の本願に救われる自分を発見されたわけです。

阿弥陀仏の本願に48あり、そのうちの18番目がかの有名な「
悪人正機」説の元となる大願であります。その本願成就文に「
聞其名号 信心歓喜 乃至一念 即得往生 住不退転・・・」と
続きます。その意味を意訳すると「すべての往生の道を閉ざされ
ているどんな悪人であろうと、仏性ある限り、決して救わないこと
はない。ただ、ただ、わが名を聞きて救われることを喜べ、その
喜びはわが名(南無阿弥陀仏と)を思う一念に往生は定まり、も
う二度と迷いの世界には踏み入ることはない、との仏力の現わ
れなのです。

もう一度カンタンにおさらいすれば、自力の行を全て閉ざされた愚
かな人間だからこそ、仏(特に阿弥陀仏)はそのままで良いから
参れと仰られています。
このそのままとは何か!
そのままとは己の犯した罪の恐怖心がいっぱいで自らの力で恐
怖心払うことが出来なくても、罪も迷いも忘れてそのまま(実相
=仏性)来い、救うぞ!
という救いの現実なのです。


今回母の入院が縁で「続々甘露の法雨」を読んでいて最後にきて
涙が止まらなかったのは、そのご文章が阿弥陀仏の本願とまった
く同一だったからです。
そのくだりを書き写して見ます。

『・・・されど「動揺の心」をもって
「動揺のこころ」を鎮むること難(かた)ければ、
不安の心にて不安の心を止(とど)めんとするも亦能(あた)わざ
るなり。

かくの如きときには、

ただ、神に委ねよ
全(まった)き愛なる神に信頼して、
「神よ」と呼ぶべし。
神は常に汝に調和と平和を与え給うべし。
神の中(うち)に汝の「心」を投げ入れよ。

「神よ、神よ」と称えつつ
汝の全存在を神に委(まか)せ切るべし。
・・・・』

ここに神の慈愛と仏の慈悲との一体なることを見るのです。

私は感激のあまり頬伝う涙を禁じえませんでした。
生長の家は自力聖道門のみにあらず、たとえ悟りを開けない
ものにも救いの道を必ず残し賜っていることが確認できて、本
当に嬉しかったのです。

「万教帰一」まさしくこれなり!

【 2009/02/15 10:32 】
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続々甘露の法雨を読み進めていると、病気が消滅する理由が
「心から恐怖を消し去る」ことが重要であり、懺悔の重要性を説
かれています。

懺悔といえば仏教では次のように説かれています。
最大の懺悔は「眼より血の涙を流し、全身の毛孔より血の汗を流
す」とされています。
次の懺悔は「眼より血の涙を流し、全身より汗を流す」とされてい
ます。
救いの最後の砦は最低でも「眼より涙を流す」懺悔とされていま
す。
自分の罪を明らかにし、白日の下に晒してこそ光に合い、罪という
闇が消えます。
1000年の闇も光にあえば一瞬にして消えるように、罪も神仏の前
での懺悔により一瞬にして消滅するのです。

生長の家で「人間神の子なれば本来罪なし」とはとかれますが、
だからといって自分に罪が無いという傲慢や慢心では罪は消えず
罪は死に値するといわれています。
懺悔して初めて罪は消滅すると言われているのです。
当たり前のことですが・・・・。

さてだからといって民衆の前で懺悔することを許していません。
「真理を解しない闇の前に、いたずらに悪評する民衆の前に、罪を
暴露しても何の効なし」です。
静かな部屋で先達に行うか、手紙に書いて送れとされています。
私としては神仏の前でも良いから一人静かに懺悔するのも良いか
と思います。

そして一たび懺悔したならその罪にとらわれるなと諭されています。

このとき流した涙はあなたを浄化し、晴れ晴れとした新しい自分の
発見をされることでしょう。

つづく

【 2009/02/11 13:05 】
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